7月 13 2009
エゴや自我ってなんだろう。
最近よく考えます。
産まれたばかりの赤ちゃんは、おそらくエゴがない。
その代り個性もあまりありません。
成長して、エゴや自我が芽生えると徐々に個性が出てきます。
ということは、エゴや自我がなければ、おそらく、個性もないのでしょう。
動物や植物にほとんど個性が無いことも同じ理由からだと考えられます。
すなわち、エゴや自我があるからこそ個性があるわけで、エゴが全くなくなってしまったら個性が全く無くなってしまうと思われます。
最終的に個性を無くすことが目的であれば、そもそもエゴや自我を持って生まれてくる必要がないわけで・・・。
そもそもそんな意味のないことを、最初から宇宙が創造するとは考えにくいです。
ただ、人間が苦しむのは、お釈迦様が説いたように、エゴがあるためであることは明らかです。
それゆえに、お釈迦様は四諦という考え方を後世に残しました。
その結果、エゴを無くすことが人生の目的であるというように理解されている人もいます。
しかし、エゴを無くすことは、普通に生きていては不可能だと思います。
今の社会では、エゴを完全になくしてしまったら、自らの生命を保持することも困難でしょう。
一体、どう考えたらいいのでしょうか。
今の時点で思っていることは、すべてのエゴを愛ある方向に転換していくことが大切なのではないかということ。
例えば、頑固というエゴを、意志が強いというエゴに。
優柔不断というエゴを、柔軟というエゴに。
おそらくそれは、精神的なバランスを大切にすること。
孔子が言った「中庸」に繋がる考え方かと思います。
すべてのエゴを愛ある方向に変換していくこと。
もしかしたら、エゴを持って生まれてきた意味がそこにあるのかもしれないですね。
ありがとうございました。



仏教では、苦しみの状態であるサムサーラを超越した、一切苦しみのない状態であるニルヴァーナが存在していると説かれています。
サムサーラは「循環」という意味で、ニルヴァーナは「静止」という意味です。
仏教の四諦はサムサーラを止めニルヴァーナに到達するための教えです。
ヨーガでは、苦しみの状態である自我を超越した、一切苦しみのない状態真我が存在していると説かれています。
わたしは仏教でいうサムサーラ・ニルヴァーナ、ヨーガでいう自我・真我は同じだと思っています。
原始仏典と原始ヨーガ経典は同じような教えを説いています。
四諦を体得し心の寂静を得た者を小乗仏教の完成者・阿羅漢と言います。
そして仏教には四無量心(しむりょうしん)という教えも説かれています。
これは「四つの量ることのできないほど広大な心」という意味です。
この四つの心とは慈悲喜舎(じひきしゃ)です。
慈は、他の喜びを自己の喜びとして、他の喜びを増大させようとする心の働きです。
悲は、他の苦しみを自己の苦しみとして、他の苦しみを減少させようとする心の働きです。
喜は、他のよい行いに対して心から喜び称賛する心の働きです。
捨は、一切の現象に対するとらわれを捨てる心の働きです。
>最終的に個性を無くすことが目的であれば、そもそもエゴや自我を持って生まれ
てくる必要がないわけで・・・。
そもそもそんな意味のないことを、最初から宇宙が創造するとは考えにくいです。
インドの宗教思想には
「神はすべての魂に大いなる経験をさせるために宇宙を創造した。
そしてすべての魂は宇宙で大いなる経験を積み成長し続ける。
大いなる経験を積み魂が成長しきったとき、魂は自己の本質が神と同じであることを悟り解脱し神と合一する」
という思想があります。
個人的な見解ですが、情報によって限定された意識状態が自我であり、情報から解放された無限の意識状態が真我だと思っています。
インド宗教思想の最奥義は梵我一如(ぼんがいちにょ)です。
これは
「宇宙原理ブラフマン(梵)と個我原理アートマンは本質的に一つである」
という思想です。
この梵我一如の真実を体得することがインド宗教の最終目的です。
和平さんは「天」という言葉をよく使いますが、天は宇宙原理ブラフマン(梵)を指していると思っています。
そして和平さんは
「天に心を向けて、まごころで人を喜ばせる実践をすることが絶対幸福・絶対歓喜への道です」
と説いています。
分かりやすい言葉で深遠な真実を伝えてくださる和平さんに心から感謝します。
ガルダさん、コメントありがとうございます。
来週お会いできますこと、楽しみにしております。
ありがとうございました。